受検日本史では扱われない戦国武将の妻

今回は受験日本史で扱われない戦国時代の結婚について紹介したいと思います。

 

sengokukekkon

 

連続で日本史のテーマで申し訳ないです。今回記事を書いているのが大学受験時代、日本史が大好きな人だったんです。
それは置いておいて、受検日本史では女性史に代表されるように、女性の権利や特徴などをテーマに出題することもあります。
特に女子大学ではジェンダー論に代表されるようなテーマを扱うところもありますので、
傾向として女性に関する問題が課題文やテーマとして出題されることがあります。

さて、受験に出る範囲に絞った解説等でもいいのかもしれませんが、
今回は受験日本史で扱われない、戦国時代の結婚についてご紹介したいと思います。
 

戦国時代の結婚…特に戦国大名における結婚を語るうえで、
「正室」「継室」「側室」という言葉を欠かすことができません。

正室はいわゆる本妻のことで、継室は正室と離縁したり、死に別れたりしたあとで、新たに迎えた後妻を指します。
有名なところだと徳川家康が今川義元の姪で関口親永の娘えある築山殿を正室に迎えていましたが、
信長の命令で処刑した後に、秀吉の妹である朝日姫を継室に迎えています。

側室は公に認められた妾、愛人のことです。
戦国大名は後継ぎの男子が必須なため、複数の側室を置くのが当たり前でした。
また当時の結婚は政略の意味合いが強かったため、
身分の釣り合いが取れない場合はいくらお気に入りでも側室にとどめられることが一般的でした。

 

さて、そのような事情を考慮したうえで、戦国武将を支えた妻をご紹介しましょう!

 
帰蝶(織田信長の正室)
「濃姫」の呼び方が有名ですね。斎藤道三の娘であり、濃姫の呼び名は「美濃の姫」から来ていると言われています。
一般的に大名の正妻であっても「○○の娘」としか記録されなかった当時では珍しく、
信長は側室や養女の名前はもちろん、出自や嫁ぎ先まで記録されていることが大半でした。
ですが帰蝶に関しては例外的に記録がほとんどなく、
織田信長の歴史を記した『信長公記』にすら、帰蝶に関する記録がないことから謎の多い女性とされています。
信長の躍進を陰で支えた1人であり、信長は帰蝶に甘えていたという一面もあったのかもしれませんね。

 
お市の方(浅井長政の正室)
織田信長の妹であり、浅井長政に輿入れしたとされる人物です。
織田家と浅井家は同盟を結ぶきっかけとなる政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしいです。
『溪心院文』という歴史書によれば、37歳の時点で実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形であったとあり、
現代の様々な作品等で美人に描かれているのも間違いではないと言える。もちろん、『当時の基準での美形』であるのだが…

 
淀殿(豊臣秀吉の側室)
本名は「浅井 茶々(ちゃちゃ)」とされており、お市の方と浅井長政の娘(長女)であり、豊臣秀吉の側室です。
秀吉は茶々の母であり信長の妹であるお市の方に憧れていたとされ、
三姉妹の中で母の面影を一番よく受け継いでいた長女・茶々を側室に迎えたと言われている。
浅井家の様々な苦難や、婚姻後も側室として様々なできごとがあったのですが、
秀吉との間には豊臣秀頼を産み、最終的に豊臣家、そして我が子の為に生涯を全うした強き女性です。

 
ねね(豊臣秀吉の正室)
高台院とも呼ばれ、豊臣秀吉の正室である。一般には北政所という通称で知られているだろう。
ねねと秀吉との出会いは、まだ秀吉と名乗る前の「木下藤吉郎」の時代に出会い、そして結婚している。
当時としては珍しい恋愛結婚であり、結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったとされる。
ふたりの間には子供が無かったので、加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育したとされ、
秀吉の天下統一を陰で支えた人物としても有名である。

 
あまり長く書いてはあれなのでざっくりですが、まだまだ各人様々なエピソードがあります!
もちろん他にも有名な妻の逸話もありますので、時間があるのなら書きたい!しゃべりたいです!

このように何かしら興味を抱いて勉強することも理解や面白味を知るために大事な要素なので、
「勉強=点数を取るための作業」と割り切りすぎず、夏休みの自由な時間を使い、学びを深めてください。

 
本日も読んでいただいてありがとうございます。
また次回、ぜひよろしくお願いいたします。